2009年03月29日

ヘンデル2

作曲家ゲオルク・ヘンデル(Georg Händel 1685-1759)は、オペラを約40、オラトリオ(宗教色のあるオペラ)を約30も作りあげました。現在ではオペラ・オラトリオとして上演されることは少ないのです。しかし、それらの中には数々の名曲があります。歌い継がれています。

オペラ「リナルド(Rinaldo)」よりアリア「私を泣かせてください(LASCIA CH'IO PIANGA)」


オペラ「セルセ(Serse)」よりアリア「懐かしい木陰よ(Ombra mai fù)」
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2009年03月28日

ヘンデル

作曲家ゲオルク・ヘンデル(Georg Händel 1685-1759)2009年はヘンデル没後250年にあたります。命日にはヘンデルの代表作をご紹介するとして、記念の年なので数回に分けてたエピソードをご紹介しましょう。

もともとヘンデルはドイツのザクセン=アンハルト州のハレというところで生まれました。1710年ハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりました。ロンドンに演奏旅行中、ロンドンがお気に入りだったのでしょう宮廷楽長の地位はそのままにロンドンに居残ります。(1712年)ハノーファー選帝侯がヘンデルに再三再四、帰国命令を出しますが無視します。

ロンドン暮らしを謳歌していたヘンデルにとって衝撃のニュースが入ってきます。なんと1714年のイギリスのアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになったのです。さぁどうしましょう、当然ハノーファー選帝侯はカンカンに怒っているはず

そこでヘンデルは一計を案じます。ハノーファー選帝侯(ジョージ1世)がテムズ川での舟遊びの際にヘンデルが演奏すること。そのための曲を作りましたが,それが今日ご紹介する「組曲水上の音楽(Water Music)」です。そのおかげかどうか、どうやら和解に達したようです。その後、ヘンデルは1727年イギリスに正式に帰化しました。

組曲水上の音楽(Water Music)は、3つの組曲から構成されています。第1組曲はオーボエ・ホルン主体、第2組曲はトランペット主体、第3組曲はフルート・リコーダー主体となっています。 このうちよく聴かれる第2組曲より「アラ・ホーンパイプ(Alla Hornpipe)」をどうぞ。テムズ川の上で謝っているヘンデルの姿が思い浮かびますか




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2009年03月22日

セザール・フランク

ベルギー東部の古都リエージュ出身でフランス・パリを中心に活躍した作曲家セザール・フランク(César Franck,1822-1890)です。フランクの父はフランクをピアニストにしようと幼いころからピアノの英才教育を受けめす。

12歳でリエージュ音楽院を卒業すると家族ごとパリに移住し、フランクはパリ音楽院に入学します。しかしフランクは、ピアニストとしての才能は開花せずに作曲に興味をもちます。

1842年、フランクをピアニストして育てようとしたフランクの父は、そんなフランクに失望しパリ音楽院を退学させ故郷に引き上げます。

1844年、再度単身でパリに移り住みます。作曲家としての評価は低く、協会のオルガン奏者などを収入の糧としていましたが、生活は決して楽ではありませんでした。苦労しながらも作曲家としての才能を徐々に開花させていきました。

1871年、フランクはサン=サーンスやフォーレらとともに「フランス人によるフランスの音楽、そして正当な器楽曲の発展」を目的にフランス国民音楽協会を設立します。

1872年、パリ音楽院のオルガン教授に就任します。フランクは門下生たちに多大なる影響を与えます。

そして円熟期を迎えた64歳のときヴァイオリン・ソナタ(Violin Sonata in A major/sonate pour violon et piano,1886)を発表します。この曲は、同郷の後輩で、当時有名なヴァイオリニストであったウジェーヌ・イザーイ(1858〜1931)の結婚を祝うためのプレゼントとして作られた曲です。「ささやかな手書き譜ひと束、わたしはここに心のすべてをこめました。」この言葉が添えられました。このソナタは19世紀後半のヴァイオリンソナタの最高峰の一つとされ、作曲家としての名声を一気に高めました。評価されていなかった若かりしころの作品までもが高い評価を得るようになりました。

フランクの作品は、リストやワーグナーなどのドイツ音楽の影響を強く受けました。しかし単なるドイツ音楽を写実したものではなくそれを発展させ、ドイツ音楽とはまったく違う様式の音楽を生み出しました。フランクは、フランス近代音楽の生みの親と言われています。また、フランクは、偉大なる作曲家であるとともに偉大なる指導者でもありました。フランクの門下生にはボレロで有名なラヴェルやドビュッシーがいます。のちにドビュッシーはフランクに対立するようになりますが、フランクの没後、ドビュッシーはフランクについてこう語っています。「フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす」





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2009年03月15日

パガニーニ

3月13日の記事で、ピアノヂュオ「2台ピアノのためのパガニーニ変奏曲」をご紹介しましたが,この変奏曲のもととなった曲は、イタリアの作曲家でヴァイオリニストであるニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini,1782-1840)『24の奇想曲(Capricci 24)』第24番「主題と変奏(Tema con variazioni) イ短調」です。



パガニーニの作品は、のちのロマン派と呼ばれるリストやシューマンなどの作曲家に多大な影響を与えました。ルトスワフスキのように様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を作りました。『24の奇想曲』第24番「主題と変奏 イ短調」も、ルトスワフスキのほかにリスト、ブラームス、ラフマニノフなど数多くの作曲家が変奏曲を作っています。
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2009年02月27日

エルガー

イギリスを代表する作曲家といえばエドワード・エルガー(Edward Elgar,1857〜1934)でしょう。

エルガーは、イギリスの国民としての誇りを持つとともに、愛妻家としても有名です。イギリス国内各地では、他の作曲家よりも、はるかに多くのエルガー作品が演奏されています。しかし、エルガーの人生は決して順風満帆ではありませんでした。ウースター近郊、ブロードヒースという地方の楽器商の息子として生まれました。経済的な理由に専門的な音楽教育は一切受けることはできませんでした。父の手伝いをしながら独学で作曲を学びました。
16歳、職業音楽家の道に踏み出します。
20歳、ヴァイオリニストを目指してロンドンに出ます。
25歳、職業音楽家の夢がかなわず故郷に帰り、父の楽器商を継ぐとともに、音楽教師としての収入をもとに作曲活動をしました。
41歳、「エグニマ変奏曲」作曲、ハンス・リヒターの指揮によるロンドンでの初演が大成功を収め、職業音楽家の道に踏み出してから苦節25年、ようやく注目されるようになりました。ちなみに、エグニマは「謎」という意味です。
43歳、「威風堂々」作曲、この「威風堂々」に詩をつけて"希望と栄光の国"(Landof Hope and Glory)」として、いまでもイギリスの第二の国歌ともよばれ愛されています。その後も創作活動に励みますが、第一世界大戦、妻の死などで何度も挫折しました。

エルガーは、ワーグナー・ブラームス・シューマン・リスト・フランクのようなロマン派の作曲家の影響を受けるものの、大陸的な音楽とは異なり、英国人らしい感情の高貴さと精神性を表現し、英国民衆の心を深くとらえました。エルガーの作る曲には「友情」「愛」「誠実」で満ち溢れ、親しみやすいメロディです。エルガーは「愛の挨拶」「威風堂々」「エグニマ変奏曲」などが代表作ですがほかにも交響曲を3つ、「チェロ協奏曲」などたくさんの作品を残しました。


さて今回ご紹介する「愛のあいさつ(SALUT D’AMOUR)」は、エルガーが31歳のとき、当時婚約者だったキャロライン・アリス・ロバーツに贈るために書いた作品です。キャロラインは、エルガーのピアノの生徒で8歳年上でした。とkろおで「SALUT D’AMOUR」はフランス語です。なぜイギリス人なのになぜフランス語のタイトルかというと、当時故郷に戻って極貧の生活をしました。この曲の楽譜をフランスの出版会社が買い取りました。そのためフランス語のタイトルになりました。その報酬はわずか数ポンドだったとか。「愛のあいさつ」には、「Liebesgruss」というドイツ語の副題もあります。それはキャロラインの母国語がドイツ語だったからです。もとはピアノ独奏曲でしたが、ピアノとヴァイオリン用、小編成の管弦楽などにも編曲されました。オーケストラヴァージョンでお聴きください。愛で満ち満ち〜〜溢れていますね


エルガーは奥様をモチーフした作品を多く残していますが、独身時代から晩年まで奥様以外の女性をモチーフにした作品も多くあります。
posted by とある音楽家 at 08:21| Comment(11) | 作曲家たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

ムソルグスキー

ロシア・ペテルトブルグ出身の作曲家モデスト・ムソルグスキー(Modest Musorgsky,1839.03.21-1881.03.28)です。
代表作は「禿山の一夜」「展覧会の絵」などがあります。今年はムソルグスキー生誕170年にあたります。ムソルグスキーは、「ロシア国民学派“五人組”」に含まれています。
「ロシア国民学派“五人組”」というのは、19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団です。 
アレクサンドル・ボロディン(1833-1887) ツェーザリ・キュイ(1835-1918) ミリイ・バラキレフ(1837-1910) モデスト・ムソルグスキー(1839-1881) ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)
19世紀後半のロシアといえばロマノフ朝いわゆる帝政ロシアの末期、アレクサンドル3世、ニコライ2世の時代で、シベリア開発など東方進出していたころです。このころロシアは革命にはまだほど遠かったものの、農奴制に基盤を置いた社会の歪が頂点に達し、社会不安は極限にまで達していました。このあと日露戦争(1904-1905)などによって帝政ロシアは解体し、レーニン、スターリンが台頭してきます。


ムソルグスキーは、「ロシア国民学派“五人組”」の中にあって、最も個性的な作曲家といわれました。富裕な貴族として生まれ、幼いころは母からピアノを学ぶものの作曲はまったくの独習でした。はじめは軍人になったのですが、やがて作曲の道を歩みだし“五人組”を作りお互い切磋琢磨していました。ロシア国民主義音楽を追求し、古くからあるロシアの民俗音楽を取り入れながらも、全音音楽、自然的短音階、それまでの枠にはとどまらない大胆な和声法を駆使しました。しかし、ムソルグスキーは著名でなかったこともあり、生前にはほとんど公に演奏されることもなく楽譜の出版すらありませんでした。彼の作品の多くは後世、編曲されたものが多くあり、現代ではオリジナル版よりも編曲版のほうが多く演奏されています。

さて、組曲「展覧会の絵 (Pictures at an Exhibition [Bilder einerAusstellung])」(1874)は、若くして亡くなった友人の建築家兼画家ハルトマンの遺作展に触発されて作曲された作品です。遺作展では400もの絵画が並びました。このうちムソグルスキーが強く印象に残った10枚の絵画を描いた10曲と、『プロムナード』5曲、『死者とともに死者の言葉で』の16曲からなります。印象を音楽に仕立て上げられており、その間にプロムナードという前奏曲あるいは間奏曲が挿入されているのが大きな特徴となっています。このプロムナードはムソルグスキー自身の歩く姿を現しているといわれています。亡き友を偲びつつ作品を鑑賞する姿が思い浮かびます。

プロムナード Promenade
1 小人(グノーム) Gnomus
プロムナード [Promenade]
2 古城 Il vecchio castello
プロムナード [Promenade]
3 テュイルリーの庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか Tuileries - Disputed'enfants apres jeux
4 ビドロ Bydlo
プロムナード [Promenade]
5 卵の殻をつけた雛の踊り Ballet des poussins dans leurs coques
6 サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ Samuel Goldenburg und Schmuyle
プロムナード Promenade
7 リモージュの市場 Limoges - Le marche
8 カタコンブ - ローマ時代の墓 Catacombae - Sepulchrum Romanum
死者とともに死者の言葉で Cum mortuis in lingua mortua
9 鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤーガ La cabane sur des pattes de poule -Baba-Yaga
10 キエフの大門 La grande porte de Kiev


もともとこの作品はピアノのための組曲でした。この作品を一躍世に知らしめたのが、『ボレロ』で有名なモーリス・ラヴェルによる管弦楽への編曲(1922)です。ただしラヴェル編曲版は 6. と 7. の間のプロムナードが削除された15曲です。『死者とともに死者の言葉で』は『プロムナード』の変奏であり、6番目の『プロムナード』と位置づけることもできます。その後もこの作品に触発された多くの編曲が出ており、名指揮者ストコフスキー編曲の管弦楽版、他にトゥシュマロフ、ウッド、アシュケナージ等による管弦楽編曲、そして富田勲のシンセサイザー版などがあります。


【組曲「展覧会の絵」】 ラヴェル編曲版です。指揮:エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen,1958-)フィンランド出身の指揮者、作曲家演奏:Philharmonia Orchestra(http://www.philharmonia.co.uk/)

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2009年02月13日

ジャン・シベリウス

今日は北欧フィンランド出身の作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius,1865-1957)を紹介しましょう。

シベリウスはフィンランドの首都ヘルシンキの北約100kmの小さな村で生まれ育ちました。子供のころ、学校には行かず毎日森の中で大好きなヴァイオリンばかり弾いていました。

シベリウスは交響曲を第7番まで作りました。実は8番まで作っていたのですが、自己に厳格で完全性を求めるあまり交響曲8番の楽譜を暖炉に入れて燃やしてしまったとか ・・・

シベリウス作のピアノ曲、「樹の組曲(5つの小品)」op.75その名のとおり、樹をモチーフにして短い曲を5つ組み合わせています。標題はそれぞれ「ピヒラヤの花咲く時」「孤独な松の木」「はこやなぎ」「白樺」「樅の木」それでは,「樹の組曲(5つの小品)」よりこのうち、よく耳にする「樅の木」op.75-5 (Granen, The Spruce op.75-5)をそうぞ。




樅の木の森からムーミンがひょっこり顔を出しそうですね。
posted by とある音楽家 at 14:25| Comment(1) | 作曲家たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

ドヴォルザーク

チェコ出身の作曲家ドボルザーク(1841-1901)作の「ユーモレスク」7番です。






ドボルザークといえば交響曲第9番新世界より」が有名ですが、この「ユーモレスク」もよく耳にする曲です。実はドボルザークは、鉄道オタクだったのです。なんとなく蒸気機関車の出発のリズムに聴こえませんか。


演奏はヴァイオリン:イツァーク・パールマン(Itzhak Perlman 1945-) イスラエル出身のヴァイオリニストチェロ:ヨーヨー・マ(1957-)パリ生まれの中国系チェリストです。
posted by とある音楽家 at 16:28| Comment(5) | 作曲家たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

チャイコフスキー

以前にも「くるみ割り人形」でご紹介したロシアのピョートル・チャイコフスキー(Peter Tchaikovsky,1840-1893)作の「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23第1楽章」です。

この曲も何度も耳にされたことがあると思います。チャイコフスキーはピアノ協奏曲を3つ作っているのですが、あまりにもこの部分が有名になりすぎて「ピアノ協奏曲第1番第1楽章」が「チャイコフスキーのピアノ協奏曲」となってしまったようです。

さて、曲を聴いてみましょう。 ピアノ:ヴァン・クライバーン(Van Cliburn,1934-),指揮:キリル・コンドラシン(1914-1981,Kirill Kondrashin)RCA交響楽団の演奏でどうぞ。

前半


後半


荘厳かつ流麗なる序奏で始まります。
【00:03】まずは、大胆なホルンの下降旋律、そしてオーケストラ全体が「ジャン!」と応えます。かっこいいですね。いきなりテンション高いです。
【00:13】オーケストラに負けない重く力強いピアノの和音。鐘の音のように聞こえませんか。ここまでが序奏です。
【00:18】ピアノのバックで第一ヴァイオリンとチェロが第1主題を奏でます。これはウクライナ地方の民謡「ヴェスニヤンカ」をモチーフにしています。やがてピアノがソロで第1主題を引き継ぎます。そしてあらゆる楽器がこの旋律を奏でます。
【03:27】ここからは第2主題です。抒情的ですね。このあと展開部にうつります。壮大で圧巻な終結となります。

第1楽章だけでも20分あります。まったく飽きません。いつ聴いても新鮮な感動と余韻が残ります。演奏家によっても印象が大きく異なってきます。

さて、この曲は、チャイコフスキーが友人でありかつ尊敬するモスクワ音楽院院長のニコライ・ルービンシテインに初演の指揮してもらおうと作曲し、献呈しました。しかし、楽譜をみたニコライ・ルービンシテインは、どうもこの曲がお気に入りで無かったようです。ニコライ・ルービンシテインは演奏しようともせずに楽譜を返してしまいます。失礼ですね。しかたがないので、初演は別の指揮者に依頼しアメリカ・ボストンで行われました。(1875)初演は大成功、それを知ったニコライ・ルービンシテインはチャイコフスキーに謝罪するのです。さて、二人の仲はどうなったのでしょう。

モスクワでの初演はニコライ・ルビンシテインの指揮で演奏されました。チャイコフスキーを代表する曲の一つ、いやいやクラシック音楽を代表する曲の一つとなりました。
posted by とある音楽家 at 10:05| Comment(6) | 作曲家たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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